Yoshi のミンダナオ日記(その4:ミンダナオ和平)

令和5年3月20日
ゼン・マラン氏
高橋元公使
 
 日本がミンダナオ和平プロセスを力強く支援してきたことをご存知でしょうか?
 私がワシントンDCからマニラに転勤した2005年当時、日本はモロ・イスラム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front : MILF) から、日本がより積極的にミンダナオ和平に関与して欲しいとのラブコールを受けていました。私はコタバト訪問を繰り返し、多くの人たちに会い、ミンダナオ問題の根深さを知りました。長年の戦闘・恨みの連鎖・偏見・貧困・不正義・ガバナンスの欠如を断ち切りたい、ムスリムの戦士が平和に暮らし、ムスリムの子どもたちが戦場から学校に戻れるように、日本に何が出来るかを必死に考えました。コタバト出身で、我が尊敬する人権派弁護士であるゼン・マラン氏とは徹底的な議論を繰り返しました。
 2006年、日本はマレーシア、ブルネイ、リビアからなる国際監視団(International Monitoring Team: IMT) に、ムスリム諸国以外では初めての要員(JICAの永石雅史氏)を派遣しました。地元の人々に「和平の配当」を感じてもらえるように、J-BIRD(Japan-Bangsamoro Initiatives for Reconstruction and Development)を開始しました。
 日本のミンダナオ和平支援に決定的な役割を果たしたのは、2人の日本人女性でした。
 
成田会談
永石氏
 ひとりは高橋妙子在フィリピン日本国大使館政務公使(当時)です。ミンダナオ和平に打ち込むように私の背中を押し続け、日本の支援のシナリオを書き上げ、「日本はミンダナオ和平に、カネも、ヒトも、クチも出す」と述べ、フィリピン政府からもMILFからも愛された尊敬すべき外交官でした。
 もうひとりは、緒方貞子JICA理事長(当時)です。2006年にコタバトに乗り込み、ムラドMILF議長と面談しました。また、2008年、先祖伝来の土地問題の覚書(Memorandom of Agreement on the Ancestral Domain: MOA-AD)が破綻し、内戦が勃発し、多くの国々がミンダナオから撤退する中「判断に迷ったら、皆と逆のことをするのが私の信念。」と述べて、日本は撤退するどころか、支援を倍増したのです。2010年、和平交渉が正常化した際、あるMILF幹部は私に対して当時を振り返り「国際社会がMILFを見捨てた時期がある。その時、日本だけが、我々を信じて見捨てなかった。我々はこのご恩を死ぬまで忘れない。」と涙を流して話してくれました。2011年、史上初めて、現職大統領(アキノ大統領)とMILF議長(ムラド議長)が直接会ったのが「成田秘密会談」ですが、これは日本に対する絶大な信頼が背景にありました。
栃木県真岡市にある高橋公使のお墓
ゼン・マラン氏のお墓
 私と初代 IMTメンバーであった永石雅史氏とふたりで名付けた J-BIRD の下、これまでに約350億円(約150億ペソ)の支援がなされています。たとえば学校だけでもミンダナオに、52校の校舎を建設しました。和平実現まで、日本の支援は今後も続くのです。
 高橋妙子元公使は、2011年1月30日に亡くなりました。緒方貞子元JICA理事長は、2019年10月22日に亡くなりました。IMT初代メンバーだった「我が戦友」とも呼ぶべき永石雅史氏は、昨年2022年8月3日に亡くなりました。また、私にミンダナオ問題のエッセンスを叩き込んでくれた親友ゼン・マラン氏は、2021年3月20日に亡くなりました。本日は彼の命日です。
 私には、今でも彼ら、彼女たちの声が聞こえます。ダバオ総領事として、ミンダナオにいることは何かの運命です。和平を夢見ながら亡くなった人たちのためにも、ミンダナオ和平のため、自分に出来ることは全力を尽くしたいとの決意を新たにしています。

2023年3月20日 石川義久