Yoshiのミンダナオ日記(その1・移民120周年)
令和5年1月11日


貧しかった日本から豊かな国フィリピンに初めて日本人移民が渡ったのが1903年・・明治36年、日露戦争の前年です。本年2023年は移民120周年にあたります。
日本人移民はルソン島ベンゲットで、世紀の難工事と言われて多くの犠牲者を出したケノン道路という山道を建設しました。また、ダバオでは、アバカを栽培し、当時の主要産品であった強い繊維のマニラ麻を生産しました。太平洋戦争が始まる前、ダバオには2万人を超える日本人が住み、懸命に働き、地域社会に尽くし、尊敬される日本人として、豊かな日本人社会を築いていたのです。私は日本人移民たちの開拓者としての勇気と弛まぬ努力に対して、心からの敬意を表します。
しかし、戦争は、真っ当に生きてきた日本人移民とその家族、子孫たちの運命を変えてしまいました。日系人は、戦中そして戦後と、筆舌に尽くし難い苦しみを生き抜いて来たのです。戦後78年が経った今日でも、日系人の戦後はまだ終わっていません。戦争は二度と繰り返してはなりません。平和を謳歌している全ての日本人が、立ち止まり、真剣にフィリピン日系人問題を考えるべきと私は思います。
移民120周年の本年は、歴史を学び、先祖に感謝するとともに、日本の文化を紹介し、日本とダバオとの友好関係を深める1年にしたいと願っています。
2023年1月11日 石川義久
日本人移民はルソン島ベンゲットで、世紀の難工事と言われて多くの犠牲者を出したケノン道路という山道を建設しました。また、ダバオでは、アバカを栽培し、当時の主要産品であった強い繊維のマニラ麻を生産しました。太平洋戦争が始まる前、ダバオには2万人を超える日本人が住み、懸命に働き、地域社会に尽くし、尊敬される日本人として、豊かな日本人社会を築いていたのです。私は日本人移民たちの開拓者としての勇気と弛まぬ努力に対して、心からの敬意を表します。
しかし、戦争は、真っ当に生きてきた日本人移民とその家族、子孫たちの運命を変えてしまいました。日系人は、戦中そして戦後と、筆舌に尽くし難い苦しみを生き抜いて来たのです。戦後78年が経った今日でも、日系人の戦後はまだ終わっていません。戦争は二度と繰り返してはなりません。平和を謳歌している全ての日本人が、立ち止まり、真剣にフィリピン日系人問題を考えるべきと私は思います。
移民120周年の本年は、歴史を学び、先祖に感謝するとともに、日本の文化を紹介し、日本とダバオとの友好関係を深める1年にしたいと願っています。
2023年1月11日 石川義久